人というのは、生まれて死にゆくもの。人間ではなくても、生き物全てに生と死があります。とても自然なことなのですが、誰かの死。これは自然なことであっても、なかなか実感できずに、受け入れ難い出来事です。
そして、その出来事が、残った人々に与える影響は小さくありません。ショックを受けたり、喪失感に悩まされたり、悲しむ日々。その悲しみが大きく、身を崩してしまうこともあるでしょう。体は無くとも、悲しみや苦しみとして人々の中に残り続ける。立ち直ることができなかったり、うつ病などになってしまうこともあるでしょう。そういったことが、多くの人の人生の1つとなります。
しかし、残るのはショックや喪失感、悲しみや苦しみだけではありません。
亡くなった方の愛や喜び、笑顔、その人の想いもたくさんのことが、残った人々には残り続けます。そして、共に生きることもできます。
悲しみにフォーカスをしてしまうと、愛や喜びは霞んでしまうことがあります。受け入れられないこととして残ってしまいます。
日々生きている中で、自分自身のことでもそう思うことはあるのですから、人のことであれば、乗り越えたり、拭うことは簡単なことではありません。
ですが、亡くなった方を、悲しみや苦しみと感じるのか、愛や喜びとして感じるのか。それは、残された私たち自身なのです。亡くなった方を、どう生かしていくのか。それを決めるのは私たちなのです。
この記事では、友人の死。それからの私の苦しみ。そこから私の喜びへと変わったお話をしたいと思います。いや、私だけでなく、私と彼女の喜びへと変わったお話です。
まったく同じ状況ではないと思いますが、似たような状況の人のご参考になればという想いで綴ります。
私と彼女との出会い
彼女と初めて会ったのは、大学1年生のときでした。一緒にお昼ご飯を食べたり、最寄の駅まで一緒に帰ったり、徐々に仲良くなっていきました。
ある日、顔色が真っ白だったので、心配になって声をかけると、相談があるというので話を聞くことにしました。
すると、「バファリンを1シート全部飲んだ」と言うのです。彼女は日常的に多量服薬(オーバードーズ)をしていると、そのとき初めて知りました。
いつも活発で、友達思いの明るい彼女。そんな彼女が、そんな悩みを抱えていたなんて、全く気づかず、とても驚きました。でも、打ち明けてくれたことに、ほっとしました。
それから彼女の様子は誰が見てもわかるほどに、おかしくなっていきました。大学をよく休むようになりました。洋服も、今まで彼女が着ていたのとは全然違うもの。教室で、突然泣き始めることもありました。それでも私は彼女が大好きでした。何もできないけど、でも、何とか力になりたいと思っていました。
彼女の突然のできごと
彼女は、精神科の病院に長く入院することもありました。入院先から学校に来ることもありました。欠席が多く、卒業も難しいと言われていましたが、彼女の頑張りで、何とか一緒に卒業することができました。卒業式の日、彼女は可愛い袴を着て、みんなとたくさん写真をとって、メッセージを集めて、クラスのみんなのために走り回っていました。とってもかわいい笑顔でした。
私にとって、その笑顔が、彼女の最後の姿でした。
卒業してまもなく、彼女は自ら命を絶って亡くなりました。
それからというもの、私は生きることに強い無力感を感じるようになりました。打ち明けてくれたのに、何もできなかった。
みんなから愛されていた彼女。彼女の家族も、他の友人たちも、先生方もみんな彼女のことを大切に思い、どうにか彼女の力になれないかと動いていました。彼女自身も精神科にもかかっていました。大学も卒業して、これから新たなスタートだったのに…
どうしたって人は死ぬんだと思いました。苦しみを抱えたら、解消されることはないんだ、助からないんだと思いました。
私に及ぼした影響
「○○のせいじゃないよ。○○に救われていたと思うよ」
落ち込む私に、周囲の人はそう声をかけてくれましたが、「そういう問題じゃない」と思いました。彼女が私のことをどう思っていたかということはではなくて、失われた命……それが私にとってとてつもなく大きなものでした。何をしたって彼女は帰ってこない。何より大切な命がなくなった。
まだまだ楽しいことたくさんあったのに、幸せになれたのに……なんで死ななければいけなかったのだろう……
月日が流れ、仕事をはじめて、旅行に行って、恋愛して、そんな日常を過ごすと、彼女と変わってあげたかった、そんなふうに思うこともありました。
私は、何のために生きているのかわからなくなりました。スピリチュアル関係とか、自己啓発とか心の本も読んでみたけれど、どれも薄っぺらく感じて、なんとなく自分には合わない。望むことを唱えてみるとか、前向きにとらえてみるとか、自分なりに書いてあることを実践してみたけど、続かない。できない。
趣味に没頭したり、短期留学したり、気分転換になりそうなものも色々やりました。そのときは楽しくて、そのときは楽になる。でも気を抜くと、どーんと落ち込んでしまって、そんなふうに落ち込む時間が怖くて、いつも時間を埋めていました。
綱渡りしているような気分でした。気を抜くと、綱から落ちてしまうんじゃないかって思って、いつも予定を入れるようにしていました。
一生こうやって綱渡りみたいに、だましだまし生きていかないといけないのか……と、終わりのない日々に疲れてしまいました。
再び彼女の愛情を感じられた
彼女のことが自分の中で大きなトラウマになっていると感じ、心の学校グループのセミナーで取り組んでみることにしました。すると、彼女に対するとらえ方が一変しました。
私は彼女のことを「かわいそうな子」だと思っていました。でも違いました。彼女はたくさんの人に愛されていました。最後の最後まで、大切な人のために走り回っていました。大切な人の幸せを守っていました。最後まで笑顔でした。いつも愛情いっぱいでした。彼女は彼女の人生を全うしたんだと思いました。その瞬間、彼女の笑顔が浮かび、「○○、もういいよ。ありがとう。」そう言ってくれている気がしました。
彼女は私の中で今も生き続けている。私だけではなくて、彼女を大切に思う家族や友人、全ての人の中で今も生き続けていると思いました。
それまで彼女がいなくなって、自分だけが生きている不思議さ、後ろめたさから、「幸せになってはいけない」と心のどこかで感じていました。そんなこと彼女は望んでないだろうと頭ではわかっているけれど、どうしてもその思いは拭い去れませんでした。
以前は、彼女の命を物理的にとらえていたんだと思います。亡くなったら全て終わり。では彼女は何のために生きていたのだろう、苦しむために生まれてきたの?命ってなんなんだろう、どうせ死ぬのになんで生きているんだろう、そんな風に感じていたように思います。
でも彼女のたくさんの愛に気づいたとき、彼女はずっとずっと生き続けていると思いました。幸せなんだと思いました。今もきっと笑っていると思います。
セミナーを受講してからは、私が笑顔で生きていくことで、彼女も生かされるんだ、一緒に生きているんだと自然と感じるようになりました。そう思おうとしているわけでも、考えているわけでもないので、不思議な感覚なのですが……彼女はいつも笑顔で見守ってくれている、そんなふうにも感じています。
2人の力で共に、
そう感じてからというもの、何かを楽しむこと、思いっきり笑うこと、幸せになることに罪悪感を感じることがなくなりました。ただここにある日常に感謝する気持ちが大きくなりました。私自身が幸せを感じて生きていると、不思議とさらに素敵なご縁に恵まれて、本当に幸せな日々を過ごしています。こんな私になれたのも、彼女のおかげだと思うと、本当に、彼女は命の恩人です。彼女と出会えて良かったと心から思っています。
生まれてきてくれて、ありがとう。
また、この体験を人に話すようになりました。すると、自分が思っていた以上に、ご家族を亡くした方、大切な人を亡くした方がたくさんいて、しかもそのことをなかなか人に相談したり、その苦しみや自責の念を解消したりすることができずにいることを知りました。
私の話を聞いて、涙されたり、希望を持ってくださったり、元気になってくださったりする姿を見るたびに、私が彼女の話をすることを通して、彼女自身が多くの人を救っているんだと感じます。どこまでも優しく、愛情いっぱいの彼女を思い出します。
私たちの想いを届けます
彼女は私のすぐそばでいつも笑顔で優しくしてくれたのに、私はそれを見ようとしなかった。物理的に見れないことを理由に感じることが出来なかった。でも、彼女の愛情を感じることができるようになってからは、私を通して彼女を感じてくれる人もたくさんいます。彼女を本当の意味で亡くしてしまっていたのは私だったのでしょう。でも今は共に生きています。
もし、私と同じように、誰か大切な人を亡くされた方がいらっしゃるのなら、その方を生かし、共に生きることもできるんだよ。と伝えたいです。
正直、彼女がセミナーを受けていたら助かっていただろうなと思うと、悔しい気持ちもありますが、今、目の前の方を精一杯大切にすること、それが彼女を生かすこと、彼女と共に生きることだと感じています。
その悔しさが私のエネルギーにもなっています。もう二度と、大切な人を失いたくありません。みんな大切な人。でも、自殺者が後を絶たないのが現状です。どうか、命をたつ前に、ここに出会ってくれる方が増えますように。